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名古屋地方裁判所 平成6年(わ)1627号 判決

主文

被告人を懲役四年に処する。

未決勾留日数中一一〇日を右刑に算入する。

押収してある果物ナイフ一本(平成七年押第二〇号の1)を没収する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、情交関係にあるA(昭和一八年一二月生)との交際費等に充てた巨額の借金(平成六年一一月一日現在の元利合計九五〇〇万円余)の返済にいよいよ窮し、平成六年一一月三日から同月六日にかけて九州大分方面に旅行した折にも、Aに窮状を打ち明けたが、Aは「困つた」というばかりで、具体的な解決策を打ち出すかわりに、何度も死を仄めかすような言動をした。そこで被告人は、旅行を終えたのちも東京に戻りがたく、Aの解決策を聞くまではと、同月七日夜もAの単身赴任先の住居である名古屋市《番地略》所在のマンションMJ甲野七〇一号室に滞まつたが、Aの死を仄めかす言動は相変わらず、依然として具体的な解決策についての返事はなく、最悪の場合はAがその気ならAと二人で死のうと考え、前日に引続き再び、寝るでもなく起きるでもなくの状態で一夜を過ごして朝を迎えた際、疲労困ぱいし、前途を思つて動揺しているさ中、同月八日午前九時三〇分ころ、右A方居室において、ベットに仰向けに寝ていたAが、「僕が先だからね」「刺してもいいよ」と言つて、掛けていた肌布団を足で蹴り上げて顔を覆い、腹部から下をむき出しにしたことから、ここに、Aの真意に基づく嘱託がないのに、これがあるものと誤信した末、Aを殺害して自分も後を追つて死のうと決意し、前日Aの依頼で近所のスーパーマーケットで購入し、右ベット横の木箱上に置いてあつた果物ナイフ(刃体の長さ約一二・三センチメートル、平成七年押第二〇号の1)で、殺意をもつて、Aの腹部及び背部等を突き刺し、よつて、そのころ、同所において、Aを腹部大動脈刺創により出血失血死させて殺害した。

(証拠の標目)《略》

(事実認定の補足説明)

一  被告人は、当公判廷において、本件犯行の際の記憶が十分ではなく、殺意の点についても分からないと述べる。

しかし、前掲各証拠によれば、被告人は、Aの身体の枢要部である腹部等を刃体の長さ約一二・三センチメートルの果物ナイフで多数回突き刺し、その場で同人を出血失血死させていること、本件犯行当時被告人は多額の借金を抱えており、Aから右借金の対応について明確な回答がなければ東京へ帰ることができないと思い詰めていたこと、Aの「刺してもいいよ」という言葉に呼応する形で本件犯行が行われたこと、Aを刺して死亡させた後、被告人は自殺を図つていることなどの事実が認められるから、被告人はAを殺害して自分も後を追つて死のうと決意し、本件犯行に及んだことが明らかであつて、被告人の殺意は優に認めることができる。

二  次に、弁護人は、本件犯行はAの真意に基づく嘱託を受けて行われたもので、嘱託殺人罪で問擬されるべきである、と主張する。

なるほど、前掲各証拠によると、<1>被告人は、平成五年秋ころ、多額の負債を負つていることをAに相談しており、Aも被告人が経済的に破綻寸前の立場にあることを認識していたこと、<2>被告人は、平成六年一一月三日から、Aと九州旅行に出かけ、その間借金の返済について相談していたが、Aは、同月五日ころから、被告人に対し、山から車で落ちる話をしたり自分の首を絞めてもよいと話すなど、死を仄めかすような発言を繰り返していたこと、<3>Aは、犯行前々日新大阪から名古屋への新幹線車中で睡眠薬とナイフを買つておくように被告人に指示したばかりか、犯行前日の同月七日にも、会社から電話で、被告人に睡眠薬とナイフを買うよう依頼し、被告人が本当に買うのかと念を押したのに対し、「うん」と答えた上、その三、四十分後にも購入を催促する電話をしたこと、<4>Aは、犯行直前には、被告人に対し、「刺してもいいよ」と言つて、肌布団を蹴り上げて自分の顔を覆い、腹部から下を露出させたことが認められる。

しかし他方、前掲各証拠から認定、判断される以下の諸点も留意すべきである。すなわち、<5>Aは、前記のとおり被告人の負債の問題について相談されたにもかかわらず、何ら具体的で積極的な手段を講じなかつた点、Aの収入は手取りで月額約五〇万円であり、そのうち約三〇万円を千葉県鎌ヶ谷市に住む同人の家族の生活費に、約二〇万円をA自身の生活費に充てており、住宅ローンの支払等はあるものの、A自身の経済状態は悪くなかつた点、<7>Aは平成六年一〇月には妻のB子と二人で京都旅行に行くなどしており、夫婦仲は悪くなかつた点、<8>Aは同年一一月七日午前一〇時ころB子と電話で、次男の高校進学について話すなどし、そのときにはAが悩んだり考え込んだりするような様子は認められなかつた点、<9>Aは、帰宅したのち同日午後一時ころ、被告人が聞いている目前、電話で、会社の者と本件犯行日である翌八日午後の仕事の打合せを平然とした態度でしていた点、<10>Aは、被告人に対してしばしば睡眠薬の購入を依頼しているが、被告人の買い求めた薬品については、A自身これを服用した様子が認められない点、<11>Aの死体発見時の姿はTシャツ一枚に下半身裸という状態であり、到底死を決意した格好とは思われず、また遺書等も全く発見されていない点、<12>Aの死体には、手の指や左前腕部に防御創と思われる創傷があつたほか、背部にも刺創があつた点。

以上の事実や諸点を総合すると、Aは、客観的に見ても死ななければならない状況にあつたとは考えられず、実際本件犯行前においても、被告人以外の者の前では深刻さを見せておらず、むしろ明るい表情を見せていたのである。本件犯行状況を見ても、Aの前記左前腕部等の創傷(<12>)は、その深さ等から見て単に転倒した弾みで付くものとは考えられず、これらは実際に同人が抵抗したことを示すものである。もつとも、前記のとおり、Aは被告人に対して幾度となく死を仄めかすような言動をしている(<2>、<3>)が、全体として見れば、Aは、被告人から深刻に相談を持ちかけられたことから、返答に窮して沈黙している場面が多いのであり、被告人に対して何とか誠意を見せざるを得なかつたことから、自分も考えているという態度を示すために出た言動とみるべきである。また、犯行直前に「刺してもいいよ」と言つたこと(<4>)も、Aが、長年交際して自分を信じ切つている被告人には自分を殺せるはずがないと高を括つて、「刺せるものなら刺してみろ」と言わんばかりの行動に出たものと考えられ、右発言をもつて、右嘱託が真意に基づくものと認めることはできない。

したがつて、本件殺害につき、Aが、被告人に対し、自己の殺害について真意に基づく嘱託をしたとは認められず、右の弁護人の主張は採用しない。

三  しかし、弁護人の主張にかんがみ、前記二の判断を前提として、被告人において嘱託が真意に基づくものであると誤信して殺害行為に及んだか否かについて検討する。

被告人は、本件犯行直後から捜査段階、公判段階を通じて、本件殺害につき、「犯行直前にAが発した『僕が先だよ』『刺してもいいよ』との言葉が呪文のように心の中によぎり、Aが本気で同意し依頼していると信じて殺害に及んだ」と、Aの真意に基づく嘱託があると信じていた旨一貫して供述している。

しかして、そのように信じた点は、一面、被告人のいわば思い込みの激しい性格によるところもあるものの、他面、被告人は、犯行当時巨額の借金の返済期日が目前に迫つており、Aにその返済への協力を求めたが、Aからはよい返事が得られず、精神的に追い詰められ疲弊していたこと、前記の九州旅行以来、Aから何度となく死を仄めかされ、Aの求めで睡眠薬や果物ナイフを購入したこと、犯行前日から当日にかけて、被告人の目にとまり易いベット横の木箱上に右果物ナイフが置かれていたこと(しかも、これはAが置いたものである)、寝るでもなく起きるでもなくの状態で一夜を過ごすことが二日にわたつて続き、精神的にも肉体的にも疲労困ぱいし、前途を思つて動揺していたさ中、Aから「僕が先だよ」「刺してもいいよ」と言われたことなどの事情も認められ、これらの事情にかんがみると、「僕が先だよ」「刺してもいいよ」との言葉が呪文のように心の中によぎり、Aが真摯に殺害に同意しているものと信じて犯行に及んだ被告人の心情は、当時の状況に照して通常人の立場からも納得でき、その供述は十分信用できる。

なお、被告人はAの身体を多数回突き刺し、この結果Aの背部にも刺創を負わせ、腕等に防御創も負わせているが、この点を捕らえて、被告人は犯行の途中でAが嘱託を与えていないことを認識したに違いないとか、認識できた筈であるとか、と強調することは、本件犯行当時被告人が、前認定のとおり、精神的にも肉体的にも疲労困ぱいし、著しく動揺していたこと、多数回の突き刺し行為も全体として見れば一瞬といつてよい間に連続してなされたこと、嘱託を与えていた者でも、その苦痛から攻撃を遮ろうとすることはありうること等の事情を無視することになり、当裁判所の採用するところではない。

四  以上のとおり、被告人は、被害者Aの嘱託がないのにこれあるものと誤信して殺害行為に及んだことが明らかであるから、嘱託殺人の故意で殺人を犯したものとして、平成七年法律第九一号による改正前の刑法三八条二項により、同改正前の刑法二〇二条嘱託殺人罪の罪責を負うことになる。

(法令の適用)

罰条 平成七年法律第九一号附則二条一項本文により、同法による

改正前の刑法二〇二条(懲役刑選択)

未決勾留日数の算入 同改正前の刑法二一条

没収 同改正前の刑法一九条一項二号、二項本文

(量刑上考慮した事情)

1  被告人とAの交際関係及び被告人が巨額の負債を負うに至つた経緯

被告人は、最初、夫のCが昭和五五年に経営し始めた東京都新宿区歌舞伎町所在のクラブ形式の飲食店「乙山」を手伝つていたが、Cの病気入院を機に、昭和六〇年ころから、単独で同店を経営するようになつた。被告人は、昭和六二年八月ころ、同店の常連客であるコンピューターソフト会社の部長Aと、お互いに配偶者がいるにもかかわらず、情交関係を持ち、以後も、ゴールデンウィークや盆には毎年のように旅行したり、Aの独立資金を捻出すると称して平成元年春ころからは競馬に多額の金を賭けて熱中するなど、親密な交際を続けていた。Aが平成五年四月に右会社中部支社長として名古屋に単身赴任した後も、被告人は、Aが週末に東京に戻つて来たときにホテルで会つたり、二か月に一度くらいの割合で名古屋のA方を訪問するなどしていた。

被告人とAとの交際費用は、Aがサラリーマンで自由になるお金が少ないのに対し、被告人は飲食店を経営し資金に融通が利くことから、競馬の資金をも含めて、全て被告人が負担していた。しかし、折からのいわゆるバブル景気の崩壊によつて「乙山」の経営が苦しくなるなどしたため、被告人は、銀行やサラ金からの借入れのみならず、同店の常連客からも借金を重ね、Aとの交際費、店の運営資金や借金の返済に充てていた。被告人の借金総額は、夫C名義のもの(被告人が同人に無断で借り入れたものもある)も合わせて、元利合計九五〇〇万円余(平成六年一一月一日現在)に上り、「乙山」の常連客の一人に対する約七八〇〇万円もの借金の返済期日が同年一二月一日に迫つており、その他の借金の返済期日も目前に迫つていた。

2  不利に斟酌すべき事情

本件犯行は、被告人がAとの交際費、経営する店の運営資金や借金返済のため、巨額の負債を作り自らを追い詰めた上、Aまでも巻き込み、Aにとつては本気で死を決意するような理由がないにもかかわらず、Aの嘱託があるものと軽信して殺害行為に及んでおり、自己中心的、短絡的で身勝手な犯行であることは否定できない。殺害方法も、背部からの刺創を含め、多数回果物ナイフで突き刺しており悪質である。そして、当時五〇歳という働き盛りでの死亡という重大な結果を招いており、精神的支柱を失つた妻や高校進学をひかえた二男などAの家族に対して与えた被害は多大であり、遺族の被害感情もいまだ厳しいものがある。

3  有利に斟酌すべき事情

一方、Aは、被告人に交際費用を出させ続けた上、借金返済の協力について曖昧な態度に終始したばかりか、死を仄めかすような態度を取つており、Aのこのような態度が、本件犯行の誘因となつたもので、Aにも落度があること、被告人は、自ら一一〇番通報の上自首していること、犯行後自殺を図り、その傷害の後遺症が残つていること、被告人には前科前歴は全くないこと、夫Cが被告人の社会復帰後同人を迎え入れる用意があると当公判廷において述べており、被告人は本件を深く反省している。

よつて、主文のとおり判決する。

(検察官綿崎三千男、弁護人山崎素男公判出席)

(裁判長裁判官 油田弘佑 裁判官 土屋哲夫 裁判官 松岡幹生)

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